未達歌の本棚

TRPGシナリオや創作小説

私が死んだ夏

 

長い、長い夏が来た。
燦々と降り注ぐ日差しの中、壊れる波の音と木々の喋る声、熱気と湿気、紫外線と蝉の産声。
明るい空とは正反対の酷く気怠い空気の中で、私はぼんやりと考えていた――。

余りの熱さに、揺らいで見えた蜃気楼が足元を霞めていく。外に出た時から拒絶するような温度が身体を包んでいたが、歩き出して五分の距離で私の視界は揺らいだ。じんわりと浮かんでいた汗が頬を伝って流れていった。顎に溜まった雫を手の甲で拭う。暑い、と言葉に出してしまえば負けてしまう気がして、私はそれを乾ききった喉でグッと押し込んだ。
引き摺る様に運ぶ体はもはや鉛だ。持ち主のいう事を聞かず、私という意思を折ろうとしている。しかし屈してはならない。ここで折れてしまうのはダメだった。
私は道路の中心をフラフラと占領し、車どころか人一人いない、静かで、ただ熱だけが支配する空間をさまよう様に歩いた。いや、実際に彷徨っていた。私は何処へいくのだろうか。どこに向かえばいいのだろうか。つい昨日までは普通だった日常の欠片を、脳の端に追いやっていた。家に帰る道がわからない。いざ世界へ出た私は、この先どこに足を向けていいのかわからずに十字路で歩みを止めてしまった。
「帰らなきゃ。」
やっとの事で逃げ出した地獄を離れて、まだほんの少し。まだ足を止めてはいけないのに。後ろから追ってくる可能性だって十分にあるはずだ。早く家に帰らないと。
くすんだ茶色が染みついた薄いシャツも、止まらぬ汗で肌に張り付く。手で拭っても取り払えない不快感の中、焦る心とぼんやりとした思考で私は考えた。
――いや、追ってくる心配はないな。
ふぅ、と小さくため息を吐き出して髪が張り付いた項の汗をぬぐった。ふわふわ、とした意識の中で私は先ほどの光景を思い出した。意識しなくても、瞼を閉じればそこに見える。たくさんの肉塊と夥しい程の血溜まり。骨で作られた食器は陶器のように滑らかで、まだ幼さの残るさらりとした肌に無理やり刺青の彫られた皮膚が額縁に挟まれて壁に飾られている。
エリザベートの邸。
あそこはまさに、地獄そのものだった。


*    *    *


そもそも、地獄にいれられたのは私が夏休みに入ってからすぐの事だった。高校生最後の夏休みは騒いでいられるほど期待できるものではない。じわりじわり、と迫る受験に向かい合ってひたすら机に座ってることしかできないのだ。周りや親からの重圧はどうも苦しいものだった。友の中には受験をしない者もいたが、彼らからの「遊ぼう」メッセージはみなかったことにした。どうも心が寂しい。
夏休みは家で自主学習に取り組み、できる限りの時間を使って進学のために努力する。そんな夏休みの中でもいくつかの日は外に出る用事があった。
例えば、図書館での勉強会。それから進学相談の為に学校へ先生に会いに行ったりも。長期休暇八日目で私は担任の先生に会いに行くことにしていた。受験への不安やストレスをどう処理すればいいのか聞きたかったのだ。
しかし、休みという事で気を抜いてしまったのか用事があることを忘れ三十分程度の寝坊を許してしまった。重い瞼を開いた私は手に握りしめた携帯が示す時間をみて飛び起き、朝ごはんも食べずに家を飛び出した。人を待つのは構わないが人を待たせるのが嫌いな私。約束の時間の五分前には到着していることが自分の中での鉄則だった。それなのに今日は間に合いそうにない。「申し訳ない。」心の中で謝りながら学校への下り坂を歩いた。このまま真っ直ぐ行けばいつもタイミングの難しい交差点が待っている。歩行者信号の青がいつも合わないのだ。私はその交差点が嫌いだった。車通りも多いし人も多い。人の視界に自分が入るのも嫌いで引きこもりがちな私には得など一つもない場所。怠い気持ちのまま信号を一瞥すれば青は点滅して消える寸前だった。「あぁ、くそ。」と舌を打ちながら踵を返す。十秒ほど戻って小さな脇道を通ると少し遠回りだが静かな通学路がある。この道はあまり知られていないらしく私以外に生徒が通っているところを見たことがない。まさに、私に特しかない道なのである。木々のおかげで少しだけひんやりとした道を通りながら蝉の声を背後に先を急いだ。普段は母から借りている黒い日傘を持って外へ出るのだが時間に焦る私にそんな余裕はなかった。人を寝坊で待たせておきながら紫外線や日焼けを気にするほど、私は頭の中お花畑ではない。
それにしても暑い。溶けるという表現が今なら少しわかる気がする。脊髄からじんわりと溶けだして地面にへたり込んでしまいたくなる。普段登校する時間よりも昼に近いからだろうか、いつもよりも汗や疲労感が多い気がする。視界が霞んできて最後に見つめていた道路の濁色。視界いっぱいに広がって、そこからの記憶はよく覚えていない。しかし、今思えばいつもよりも少し違う行動をしたこと。たったそれだけのことが、私を殺すには十分な日々が幕を開けていた。


  *    *    *


次に目が覚めた時には柔らかなベッドの上。
ふんだんに羽毛が使われているのか、こんなに柔らかい布団に包まれて眠るのは初めてだ。
もぞり、と寝返りを打った時に感じるベッドシートの滑らかさと枕のちょうどいい高さ、静かに悲鳴を上げたスプリングはどう考えたって私の物ではなかった。
真夏だというのに肌を撫でた空気は冷たい。私の家では勿体ないという事でクーラーをあまりつけないのだがやはり心地良い。まるで湯水のように電気代が流れていく、と夢と現の間で笑った。そこでようやく疑問を抱いた。「ここはどこだろうか。私は学校に居るべきではなかったのか。」思わず跳ね起きるように身体を起こして布団を握りしめた。
意識がブラックアウトする前の濁色とは打って変わって目覚めて最初に見た世界は“真っ赤”だった。まるで真新しい白い壁に鮮血をかけたように真っ赤な色。あぁでも、鮮血を壁に掛けたのなら空気に触れて茶色く濁る。こんなに綺麗な赤ではないはずだ。ならやはりこれはペンキだろう。目の前の真っ赤な壁があまりにも見事で視界に入っていなかったが、視点を少しずらしてみるとまるで西洋の館のように立派な部屋だった。家具や調度品を眺めてみれば金や赤で装飾されているのがわかる。統一感がありながら豪華な部屋だ。
「この部屋の主とは趣味が合いそうだなぁ。」
普段の生活をしていれば、こんなに私の好きなものを詰め込んだ部屋を拝めることなんてなかっただろう。私は中世西洋の建物や文化がとても好きだった。そんな非現実的な世界観が私の思考を鈍らせているのか。私が今考えるべきことは、館の主と気が合う合わないではなく、なぜ私が此処にいることである。一瞬の思巡の後、ドアが三度のノックの後に開かれた。
「目が覚めたのかしら?」
ふわりとまるで薔薇が咲くように笑ったその女性は、今まで見たことがない程整った容姿をしていた。柔らかな髪を緩くリボンで留めていて、身にまとっているドレスは間違いなく西洋のソレ。レースやチュールを大量にあしらった豪華で美しいドレス。この部屋と同じように真っ赤な色をしていたが、それも美しかった。
あぁ、生まれ変わるならこの人の子供に生まれてこの部屋に住みたい。
コツコツ、とヒールの踵を響かせて近寄ってきた彼女は聖母のような笑みを浮かべたまま私の額に手を当てた。おっと、なんて呟きながら白魚のような手を見上げる。
「うん、もうすっかりよくなったね。」
「え、っと。あの、すいません。もしかして私って、熱中症で…?」
此処でようやく意識を失う前の自分を思い出した。朝食を抜き低血圧の身体に鞭うって家を飛び出したのだ。それに炎天下だったし発汗量に対しての水分摂取量が圧倒的に少なかったと思う。倒れて当然だ。
少しだけ困ったように微笑んで頷いた彼女に、私は「あっちゃー。」と情けない声を出して顔を覆った。こんな美人に助けてもらって、綺麗な部屋で柔らかいベッドにいれてくれたのは感謝するが、よりにもよってこんな素敵な人に醜態を晒した自分が憎い。見たところ育ちもよさそうだし、日本には貴族はいないからきっと財閥のお嬢様だろうか。いや、年齢的に見れば奥様?
「道端で倒れているところをうちの使用人が見つけてね。大変、と思って連れて来たの。」
「いや、ホントすいません。お手数をおかけいたしました。」
綺麗な指先を揃えて口元に添え小さく笑う彼女を見た。恐ろしい程画になる方だ。ますます庶民の自分が可哀想になる。なぜか他人事のように自身に同情してしまった。
「しかし、すごくきれいな部屋ですね。ここはご自宅ですか?」
「そう。去年に夫が亡くなってね。今は私を主として住んでいるわ。」
地雷を上手く踏み抜いたと我ながら思う。起きて一番に彼女の胸の傷を確実にえぐった。私は才能を持つ場所を間違えたのかもしれない。とても申し訳ない、と項垂れた。しかしすぐに謝ろうと開いた口は彼女の言葉で遮られた。
「この部屋を褒めてくれてありがとう。私の好きな色を詰め込めたの。」
綺麗な赤。と呟いて、ベッドに置いてあるクッションを撫でる。
「貴方も赤が好きなの?」
そう言って、静かに指を向けたのは私の鞄。
赤いリュックにキラキラと光って綺麗な飾りをつけている。もちろんそれも赤だ。ついでに言えば中に入っている文房具やノートも赤色で統一されているのだが、そこは見られてはいないのだろうか。
「好きです。赤は見てるだけで落ち着くし、あと暗めの赤ならファッションとして楽しむのも好きです。」
ちょっとお店を回れば赤い服にしか目がいかない。ビビットもダルもダークもシックも。
「わかるわ。私もお酒を飲めるようになってからワインばかり。花も薔薇が一番好きよ。それと口紅も、ドレスもヒールも。果物も苺や林檎を選んでしまうわね。」
わかる!と思わず叫んだ私に彼女は笑った。そして「趣味が合う人はいいわね。」と嬉しそうに手を握ってくれた。私も同じように笑って手を握り返す。「赤、同盟ですね!」と言葉を添えて。彼女は自分の名を“エリザベート”と名乗った。私も名前を交換する。
「これで立派な同盟ね。」と笑った彼女の笑顔は無邪気そのもの、私は自分の好きなものを愛してくれる彼女を好きになった。
「あぁ、それじゃあ同盟として特別に、すごくきれいな赤を教えてあげましょうか?残念ながら私の周りには分かってくれる人がいなくて。」
「わぁ!ぜひ教えてください!なんの赤ですか?」
エリザベートは少しだけ躊躇して、私についてくるように言った。おいで、と手を引かれてベッドを降りる。ふわり、とした足の裏の感触に私は「絨毯まで気持ちいい」と足元を見下ろして息をのんだ。絨毯ではない。これは深く赤黒い色をした粉。灰だろうか?なぜ灰が、と思いはしたが彼女はそんな事を気にする様子はなく、私の手を引いて早く、と微笑んでいる。もしかしたらお金持ちの風習であるのかな、なんて軽く考えてそのことを早めに忘れた。
「この邸にあるんですか?」
「そう!とても暖かくて、柔らかくて。時には美味しくて滑らかで。…それに、最近気づいたんだけれど、肌に塗るとすっごく綺麗になるの!だからお風呂にも溶かして入ってるわ。」
「えぇ?食材ですか?」
「見てのお楽しみよ!」
食べたら美味しい、って。彼女の言い方からすると少し違うようだけれど、植物か何かだろうか?肌にいい、って。シソかな?確かエイジング効果に役立つらしいし。
「さぁ、この部屋よ。」
まるで地下室の鉄の扉。重たい悲鳴を上げながらエリザベートは扉の向こうに入っていった。やっぱり西洋の邸にはこれだよね!なんて思いながらドキドキと高鳴る鼓動を抑えて中を覗き見る。
そして、固まる私の身体と引きつる喉の筋肉。結果から言えば、真っ赤。ただそれだけだ。
「ほら、綺麗でしょ?」
彼女は私の手を引いて部屋の中央まで歩かせた。ぴちゃぴちゃ、と水を打つ音が聞こえる。
正直足が震えて綺麗かどうかなんて確かめている暇など無い。崩れ落ちないのを褒めてほしい程、怯えた脳は緊急信号を出していた。
「…こ、れは?」
「″ヒト″よ。それもまだ穢れを知らない純潔の少女。」
エリザベートは檻の中から一人、まだ幼さの残る少女を引き摺りだすと私の前に投げた。どちゃ、と音がして私は足元を見ることができずに彼女を見続けた。檻の中には生きている者、息をしていない者合わせて二十ほどだろうか。エリザベートは未だ、柔らかく優しい笑みを浮かべているだけ。部屋に入ってきたときの聖母のままだ。
「…この子たちを、どうしているんですか?」
脳は警告音を響かせて私に逃げろと訴えている。しかし、その反面で少しの好奇心と重い恐怖が入り混じり、私の身体をまだこの部屋に取り残していた。
「どうするも何も。この子たちの皮膚の下には素敵な赤が詰まっている。それを楽しむのよ?あなたも好きでしょう、赤。」
ここで否定をすれば死ぬ。間違いなく殺されてしまう。私は必至に動かない頭を一度だけ頷かせた。今すぐにでも気を失わせたい心を留めているのは、生にしがみついた本能だった。
「よかった!皆ね、最初は赤が好きだって言うくせに私の大好きなこの赤を否定するのよ。まるで私が化け物のように責めるの。でも仕方ないじゃない?好きなものを追及して何が悪いの?」
狂っている。それも口が滑れば私は目の前のアイアンメイデンに入れられて殺されるだろうな。他人事に考えながら私は苦笑いを浮かべていた。足元に転がる少女が小さく呻いている。夢に出そうだからやめてくれ。
「それに、私ずっと欲しかったのよ。赤が似合う娘。夫との間には子供ができなくてね。彼も死んでしまったし、もうこの美を誰とも共感できないのかと思っていた。そんな時貴方が来て、私の部屋を見て″綺麗″って言ってくれたのよ。本当に嬉しかった。」
近くにあった机に置いてある、長い針を彼女は手に持った。二十センチはあるだろうか。そんな鉄の針は赤黒い汚れをつけていた。光の反射も鈍くそれが余計に怖かった。彼女はそれを持って私に一歩一歩近づいてきた。
あぁ、ダメだ、死んだ。そう思っていたが、それでも膝は崩れ落ちない。彼女を見つめている目はきっと涙を堪えて必死だと思う。
「今から見せてあげるね。綺麗な赤。」
「あ、で、も」
待って、という言葉よりも先に、彼女の針は私の足元にいる少女の腕に食い込んでいた。
―――――!
絶叫が響いた。きゃあ、なんて可愛らしいものではない。まだ未成年の少女でもこんなに濁った声がだせるのか、という程激痛の含まれた叫び。断続的に何度も何度も、体を床に打ち付けながら少女は痛みを訴えた。正直私も絶叫したかった。しかし、うっとりとした表情を浮かべるエリザベートを前に、私が動揺すれば行く末は足元の少女。殺される。「ごめんなさい」と聞こえない言葉を口の形だけで紡いだ。ボタボタ、と零れ落ちる鮮血を彼女は指ですくって飲んでいた。上品な仕草だがやっていることは悪魔のそれ。私の目の前には化け物がいる。
「少し濃いから一気にたくさんの量は飲めないの。でも余った分はお風呂に入れて浸かったり、浴びたり。あぁ、そうだわ。お肉は夕食にしましょうね。」
「ぇ…?」
自分でも驚くほど掠れて小さな声だった。しかしエリザベートには届いていたらしく、「今日はこの子のお肉を使ってディナーにしましょうね。」と丁寧に説明されてしまった。
あぁ、帰れる気がしない。今のところ彼女は私を殺す気はないけれど、こんな異常なものをみられて、易々と帰宅させるだろうか?私ならば絶対にしない。
「同盟を結んだ貴方なら、きっと気に入ってくれるわ。」
そうだった。彼女とは口頭であったが同盟を結んだばかり。数分前の私はなんて愚かなのか。今日のディナーにされる、と聞いた少女は零れんばかりに目を見開いてエリザベートと、そして私を見た。絶望や恐怖が涙に溶けて大きく見開かれた瞳を潤していたが、それ以上に、少女の目には憎悪の色が滲んでいた。少女は、私を恨んでいた。


*   *    *


あれから、食事をどう終えたのかもわからない。どうやって邸を出たのかもわからない。気づいたら夜が明けていて、私は邸の外に居た。知らない道、知らない場所。ただ、覚えているのは「また来てね。」と笑うエリザベートの顔。
「…っう!」
無理矢理喉に通した肉が逆流して出てきそうだった。浴びせられた血も、はやく流してしまいたかった。ぐったりとした体は夏の日差しへ投げられて、私はただ宛もなく日常へ戻るために足を進めていた。監禁されて拷問を受けていた少女たちを見た時から、脳には警告音がけたたましく響いていた。だが今はもうない。その代わりに″またきてね″という声だけが、ずっと脳を揺らしていた。

長い、長い夏に戻った。
燦々と降り注ぐ血溜まりの中、壊れる人の音と彼女の笑う声、冷気と赤色、地下室と少女の絶叫。
青い晴れ空とは正反対の真っ赤で歪な部屋の中で、私はぼんやりと考えていた――。

自分が生きるために、少女の肉を喰らった。
私はあの日、あの場所で、少女よりも先に死んだのではないだろうか。
少女は物理的に死んだが、私は精神的に死を迎えた。人間を捨ててしまった。
″人はタフでなければ生きられないが、優しさを忘れた者は生きる資格がない。″
有名な作家が言った言葉がある。
その通りだとつくづく実感する。私はあの時、そこに居た誰よりも化け物だった。

だから今日も、エリザベートの邸へ足を運ぶ。