未達歌の本棚

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ビターチョコレート/優秀賞作品(第六十三回全琉図画・作文・書道コンクール)


それは柔らかくて優しい光だった。涙の張った瞳で縋る様に前方を見ると、白くぼやけて溶けていくような錯覚に陥る。
鼓膜を震わせていたのは優しくないダーククラシック。けれど心は冷たい泉に浸かっているかのように静かに落ち着いた。控えめに音を産むピアノと叫びはしないが嘆くヴァイオリンが私の心を表しているようだった。
仄かに香る上品な甘さ。舌触りのよいチョコレートがじんわりと口内に溶けていく。小さな木苺が鮮やかな酸味をはじき出し、クラシックな色合いにアクセントを入れていた。
「気に入ったかな?」
ふ、と隣に響いた優しい声に私は一度頷いた。
「とても美味しい。こんなに優しいお菓子を食べたのは初めてです。」
「それは良かった。」
まるで花が咲くように笑う人だった。花といっても牡丹や芍薬のような豪華なものではない。誰もが通り過ぎて気づかないコンクリートの隅で咲いているような、蒲公英のような小さな花。可憐で柔らかく、触れては消えてしまいそうな程ふわりとした笑みだ。
私もつられて頬が上がるのを感じていた。
「失礼。」と彼がこぽこぽ、と淹れたのは琥珀色の紅茶。すぅ、と息を吸えばアールグレイのたまらない香りが胸いっぱいに広がった。
そうやって愛おしい香りが付いた酸素が体中をめぐると、返ってきた吐息は胸の靄を掻っ攫って行ってしまった。静かで心地の良い旋律が響く。
「心地のいいお店ですね。ずっと居たいくらい。」
「ありがとう。」
 コトリ、とソーサーに乗せられたカップが目の前に置かれる。テーブルの白いクロスは淡いクリーム色掛かっていて、よく見れば所々に青い小鳥が羽搏いていた。
可愛らしい。
まるで「お揃い」とでも言うように白い陶器に青い染料で装飾されたティーカップが鎮座する。
控えめな湯気がなぜかキラキラと光っているように見えて、私はそっとそれを手に取った。
「とても香り豊かですね。家で飲むのとは全然違う。」
 香りはもちろん、味も見た目もエレガントな紅茶は胸を躍らせる様だった。
「このチョコともよく調和とれていてすごくいいです。」
 先ほど頬張ったのは彼が持ってきた一口サイズのトリュフチョコレート。可愛らしい箱に行儀よく収まって個性を控えめに主張していた。
ほろ苦いコーティングに守られたガナッシュはとろける様に甘く、無意識に強張った身体から力を抜いていった。
そんな私の様子を見ていたのか、彼は小さく笑って私の前の席に座った。向かい合った目と目が何度か瞬きを繰り返す。彼のマグカップには苦そうな珈琲が並々と注がれていた。
アールグレイはミルクチョコレートによく合うんだ。試してみて。」
 カップを少しだけ掲げて見せて、秘密を明かすように悪戯な笑みを浮かべた。私は少しだけ笑ってもう一口。冷めないうちが美味しい。香りを十分に堪能してから喉を滑り下りる。彼は珈琲を口に含むとその苦さに驚いたように顔をしかめていた。
 そして洒落たカップをソーサーに戻せばどちらともなく目を合わせた。彼はリラックスしているようだけれど、私は少し緊張してしまって背もたれに預けていた背中をゆっくりと伸ばした。
彼は安心させるように少しだけ口角をあげて「さて」と言った。
「君が此処へ来たという事は、人生に疲れてしまったということだけれど。話を聞いてもいいかな?」
 机に乗せた手を組んで彼は私を見つめていた。私は数秒考えた後、だんだんと顔を俯かせてしまう。
今までの幸せな気持ちが急激に冷めていく気がした。消えゆく優しい温もりに思わず胸元をギュッと握る。
「……聞いても楽しい話じゃありませんよ。」
「それでもいいよ。」
 吐き出して、と彼は微笑んだ。
 その言葉だけで、何故か目の奥から熱いものが込み上げてくる。琥珀色を見つめていた視界がぼやけてしょっぱくなった。
カップの持ち手に触れる指が微かに震えて力み、かちゃり、と音を立てて怯えていた。
「もう、わかんなくて。私も相手も皆、何をどうしたいのかも、何を考えているのかもわからない。」
 震えた唇が紡いだのは困惑だった。自分が思っていた以上に堪えて上ずった声が響き、右目から涙が一粒零れ落ちた。手に落ちた滴は暖かく、条件反射で鼻を啜る。
「怖いんです。人を信じることがこんなにも難しい。いつだって人の顔をみて裏がないかを探す自分が、酷く醜いように思えて仕方がない!」
 一度零れた涙は次々と連鎖して頬を伝い、震えるまつげを濡らしていった。紅茶から離した手をこれでもかという程強く握りしめて叫ぶのを耐えていた。
 ぶわり、と今までの記憶が走馬灯のように走りぬけた。その中でもひときわ冷たい記憶だけがべったりと脳裏に張り付き、幸せだった記憶など手の届かない濁った水に溶けていく。
「醜くなんかないよ。」
 取り乱している私を見つめながら、彼は微笑んで珈琲を口にした。
 その言葉に髪を振りながら否定する。
「親からの愛情ですら疑ってしまう。お腹の奥底に黒い何かがいるみたいにずっと渦巻いてて、どんなに綺麗な言葉を拾い集めてもそれがかき消しちゃう。また裏切られるのかな、って。今度はどんな仕打ちが待ってるのか、こんな地獄がいつまで続くのかな、って思っちゃう。」
「裏切られたことがあるのかい?」
 ぐしぐし、と乱暴に目元をこすって涙をぬぐった。彼は少し困ったように眉を下げてその行動を止めたが、私が子供のように鼻をすん、と啜っているのを見て続きを促した。
「苦い思い出を溜め込む必要はないよ。」
 チョコレートの甘い匂いとアールグレイの香り、通り過ぎるピアノの旋律と白い彼をもう一度確認しながら、私は深呼吸して口を開いた。
「私が中学二年の頃、親が離婚したんです。何かとすれ違いや口論の多い夫婦でしたから対して驚きはしませんでした。いつか来るだろうな、という予感はずっと持っていたんです。……でも、やっぱり寂しかった。」
 少し自嘲するように乾いた笑いを洩らすと、あの時の気持ちが甦ってくるようだった。
不安症で何かと焦る母と、基本何に対してもルーズな父は対立が絶えない。毎晩のように繰り返される口論はヒートアップするにつれて罵倒の応酬に変わっていった。
そんな眠れぬ夜は二人の姉が末の私を気遣い、やんわりと眠りに誘導してくれたものだった。
「私はお姉ちゃんが大好きで、もちろん両親のことも愛していました。だって家族なんです。だから離れたくなかったしこれからもずっと五人家族で暮らしていけるのを願っていました。しかし母は辛そうだし父もそろそろ限界が見えていました。二人が喧嘩で家の物を壊し始めた時、私は自分の我儘が両親を縛っているのだと気づきました。」
 だから気にしていないフリをして離婚に賛成したのだ。自分を偽って無関心な態度を貫いたあの時を、今でも思い出しては息苦しさを感じる。
みっともなくてもいい。それでも「離れたくないよ」と素直に言って泣けばよかった。そうしておけば、私は大切なものを失くさずに済んだのかもしれない。
「それから私は母に引き取られ、仲の良かった姉二人は父のもとへ行きました。もちろん家も別になり私は母の旧姓に改苗しました。夏休みに苗字を変えたおかげで新学期からは腫物のように扱われたものです。」
 急に消えた家族の気配に慣れず、暫くの間は一人で泣く夜が続いた。布団に潜って真夜中になってから声を押し殺して涙を流す。静かに深呼吸を繰り返しながら気を失うまで泣いていた。
「確かに辛かったけどそれだけなら耐えられた。たとえ友が離れ、生活が嫌になり、担任の教師から見放されても、私は時々会える姉との時間を支えに過ごしていました。きっと乗り越えていけるだろう、とその時の私は思っていたのです。」
「でも違ったんだね。」
「はい。離婚してほとぼりが冷めたころ、父が隠していた秘密が明らかになりました。不倫と隠し子です。父は十年以上も前から母以外の女性と不倫関係を続け、そして私と七つ違いの弟を隠していました。それを知った時は涙すら出なかった。裏切り者、と罵る言葉も泣き叫ぶ声も沸々と湧きあがる感情も、何も感じなかった。今思えば、この時から何かが壊れ始めていたと思うのです。」
 彼は私のトリュフとは違って苦そうな黒いチョコを一口食べ、驚いて目を大きく開いた。そして私をみて悲しそうにする。私はその様子に小さく笑いながら視線を逸らした。
この話をした時の人のリアクションは軽蔑されているようで心地悪い。人の親切心も好意も疑ってしまうのはこの頃についた私の悪癖である。
「あの時から人を信じなくなっていったんだと思います。私が愛していた父親の像がガラガラと音をたてて崩れ落ちていくようでした。同時に憎んだし、吐き気も覚えた。」
「そうだね。」
「それからはどんどんと状況や環境が変わっていって、順応するのに必死でした。それのせいか、私は自分の心の整理をする暇がないため、ある程度のショックなら無関心でやり過ごすようになりました。それは人間不信にも大きく拍車をかけ、次第に自分すらも信じられず、着々と私の世界から色を奪っていきました。」
 今までは鮮やかに見えていた世界。急に脱色を始めそれは止まらずにモノクロになっていった。
例えば家のベランダから見える夕焼けが綺麗だとか、少しずつ違う海の色とか、日によって違う雲の薄さや空のグラデーション、コンクリートの隅で風に揺られる菫、季節の変わり目に感じる空気の温度。色んな思い出の香り。それらすべてが、色褪せて魅力を失った。
波が打ち付ける音も風が木々を揺らす音も、ノイズが入って聞こえるようになった。
「不信の次に感動に心が震えなくなった。それは人に同調する心も忘れ去るという事。誰が死のうがその時の私には大きな衝撃にはなりえませんでした。ただ時と流れていくモノクロの世界の一部でしかないのです。それから心は愛情と希望と夢と、願いと期待を忘れていきました。別れと破滅を前提にすべてのものを見るようになりました。」
 冷たく感じる自分の手を握る。いつか壊れてしまう気がして、いつだって自分を抱きしめていた。
こんなにも心臓は打ち続けこの酷く残酷な世界に足をついて立っているのに、嘘みたいに感じる。
「私が辛かった事を周りの人は理解してはくれなかった。私は、何を考えているかわからない、と言われることが多くなりました。今までの苦しみを上手く隠せていたんでしょうか?今になっては分からないけれど……。それでも、周りは飄々としている私をみて平気だと思ったのでしょうね。何度も何度も、言葉のナイフが飛んできて私を切り裂いていきました。人とは愚かです。自分がどれほど勢いのある刃物を吐き出しているのか気づかない。そしてやっと自分に帰ってきた言葉をみてナイフだと気づくんです。」
 ある意味“言葉”とは、もっとも手軽な“凶器”なのかもしれない。平気で人を殺し、その罪悪感を感じることなく過ごしていける。証拠も何も残らない、完全なる殺人だ。
唯一残るのは私の心に深く刺さったまま抜けない針と黒く濁った毒だけ。
「私、だんだんと世界から離別していたんでしょうね。きっと置いていかれて、それで途方に暮れた。今更どうしようもなかったから、もう、いっそ……、いなくなった方がいいのかもしれない、って。」
「それで、あんなことしたんだね。」
 彼の言葉に静かに頷いた。
 目を閉じれば瞼の裏に見える。私はその日、薄い皮膚の下にある青白い血管めがけてカッターを押しあてた。最後の恐怖に耐えるように目を閉じ、震えたまま手を引けば鋭い熱が走る。
ぶわり、とあふれ出た赤は私の精いっぱいの弱さであり、涙であり、苦しみであった。
「君が此処にいる理由がわかるかい?」
 彼は一度ため息を吐いて私をまっすぐな瞳で見つめた。珈琲が空になったカップが机の端に寄せられ、彼がこちらに手を伸ばす。ほっそりとしている指が私の指に絡んだ。
温かい。
両手を苦しいぐらいに優しい温もりで包まれて、私は唇を噛み締めながら顔を上げた。
「君はまだ向こうには逝けないよ。」
「どうして?」
 彼が私の手を握りしめたまま視線を向けたのは部屋の出口。白い光を放っていてとても暖かく美しい扉。きっと人が最期にたどり着く場所だと直感していた。
彼の言葉に思わず声を洩らした。真っ直ぐに向けられた瞳と私の目がかち合う。何かを訴えかける様に揺らぐ温かい瞳の色に、話しているうちに引っ込んでいたはずの涙がまた溢れ出しそうだった。
彼は言った。
「君が思っているよりも世界はちっぽけだ。そして人生とは自由なものだよ。確かに誰かに左右されることも多々ある。色んな出来事があって、色んな人と巡り合って、色んな感情を育んでいくだろうね。そんなほろ苦くて甘いのが人生だ。どんなに苦しい夜もいずれ必ず陽は登る。それが、人生なんだよ。」
 彼は酷く泣きそうな声色で、眉をグッと寄せながら必死に話していた。その表情と堪えた声に私は溢れ出るものを止められなかった。
噛み締めた奥歯から振るえは全身に伝わり、眉間に力が入る。目元は熱くなり鼻にツンとした刺激が走った。声すら押し殺せず、私は小さく「あ、」と繰り返しながら涙を流していた。
「君は昇る朝陽を見たかい?木枯らしと雷雨が君に夜を連れてきた。でも君はまだ暁を見ていないんだよ。夜明けを迎えていないんだよ。」
 彼も瞳に涙を浮かべていた。流れはしなかったがキラリと光っていてとても美しかった。
「君が血の涙を流したとき、君の脳裏には何が浮かんだ?絶望だった?破滅だった?別れだったかい?」
 ボタボタと零れ落ちる涙をそのままに、私は必死に首を横に振った。
 違う。私が死ぬ間際に浮かんだのは家族の笑顔だった。私が心から最後まで愛し続けたかけがえのない人達。転んで泣いた時も、怖い夢にうなされた夜も、風邪をひいた時も、私が笑えるようにと慰めてくれた。
いつの間にか忘れていた幸せだった記憶が、脳裏に張り付いたどす黒い鉛を溶かしていった。本当は簡単なことだった。
私が押し込めずに素直に泣き、喚き、弱音を吐けばよかったのだ。それなのに愛する彼らの事を考えず私は独りで夜に沈もうとした。愛する者へ、緩やかに回る毒を与えてしまった。
「君にはまだ未練があった。だからチョコと紅茶をお裾分け。君は人を愛し、人から愛されるために生まれてきたんだ。その為に苦しい事も耐えて来たんだよ。」
 だから帰ろう。
 すっかり涙で世界が見えなくなった私は、彼の言葉にただただ頷いた。

 


   *   *   *

 


 ぴ、ぴ、ぴ。という電子音が響いていた。
 ゆっくりと意識を浮上させて瞼を開く。視界には見慣れぬ白い天井と私の部屋にはないカーテンが見えた。
「あぁ……!目を、覚ました!」
「ドクター呼んでくる!」
嗚咽交じりの悲鳴とバタバタと遠ざかる足音を聞いた。少しだけ唸りながら数回瞬きを繰り返して意識をしっかりと覚醒させる。すごく眩しい。
 覗き込むように視界に現れたのは母だった。ならばきっと走り去ったのは姉だろう。
私は気怠い身体が収まっているのを病室だと認識し、美しい夢を思い出していた。
「大丈夫?何か欲しいものある?あぁ、それよりも、なんであんなこと……っ!」
 涙やら鼻水やらでぐちゃぐちゃになった母の顔をみて私は小さく笑った。少し寝不足なのか、目元に隈が浮かんでいる。
 私は小さな声で「お母さん」と呼んだ。掠れた声しか出なかった。でも母は聞き取れていたらしい。私の手を、大きく温かい手が包んでいた。
「なに?どうした?どこか痛い?」
「……チョコレートが、食べたいなぁ」
 できればとびきり甘いやつ。

 


   *   *   *

 


 あれから私は無事に退院し、元の生活に戻りつつあった。しかし、また前のような距離感でいられるか、といえば頷くことはできない。
 私は退院後に心療内科を受診させられたし、母は己を責めた。姉にもひどく心配をかけたようだ。手首には一生消えないだろう傷痕を残したままだし、私はそれを見る度に苦さと甘さを思い出す。これからの人生だってすぐ夜が明けるわけではないのだ。
 それでも、私はあの時見た甘い夢を思い出しては自分を奮い立たせていた。
「人を愛し、人から愛されるために生まれてきた、か……。」
 彼から教えられた言葉で美しい朝焼けを期待できる。
 いつかまた、寿命をまっとうした時に会えるだろうか。精いっぱい人生を謳歌して逝き、再び彼に会ったときには優しい声で褒めてくれるだろうか。
 あれ以来、彼を思うたびにあの時食べた甘いミルクチョコとアールグレイを思い出す。とろり、と舌の温度で溶けて香りを躍らせるチョコレート。甘いだけではなくて木苺の酸味が特徴だった。彼に教えてもらった、アールグレイとミルクチョコを良く実践している。
「そういえばあの人、なんで苦い珈琲なんかを無理に飲んでいたんだろう?あんなに美味しい紅茶を淹れることができるのに。」
不思議に思いながらも、そのほんのひと時の甘さを噛み締める度、あの鮮やかな酸味と似た感情が私の胸を締め付けた。
私はまだその感情の名前を知らずにいる。

 

 

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2015年(当時:高校3年生) 沖縄タイムス主催

第六十三回全琉図画・作文・書道コンクール 優秀賞 作品